第五話:暗転
紀元前195年、陳討伐に親征していた劉邦だったが、

「黥布叛く」の報が入るや直ちに黥布討伐に向かった。

劉邦の留守の間は樊が大将を務め、陳を攻めた。

の猛攻で陳軍は総崩れし、陳は捕えられ斬られた。

しかし、陳の部下達は多くが降伏した。

彼等は尋問を受け、

「燕王盧綰が范斉という家臣を遣わし、陳と通じていた」ことを吐いてしまった。

劉邦はこの事実が信じられず、盧綰から事情を聞こうとし、都に出頭させようとした。

が、盧綰は仮病を使った。

劉邦は益々疑い、辟陽侯審食其(しん・いき)御史大夫趙尭(ちょうぎょう)に命じて

燕王盧綰を迎えに行かせ、ついでに盧綰の側近を取調べるよう命じた。


盧綰は、「劉姓以外で王位にあるのは長沙王呉臣と、わしのみだ。

このあいだ韓信の一族が皆殺しになり、彭越の一族も皆殺しとなった。

あの処刑は、全部呂后の仕業である。

私は昔から呂后の人となりを知っているから判るのだ。

いま帝は病み(黥布討伐で負傷→悪化)、政治は呂后に任せっきりである。

呂后は口実さえあれば実力を持つ功臣を根絶やしにしようと躍起になっている。

いま、私が召喚に応じれば、呂后に殺されるであろう。

帝は、呂后に頭があがらないからな。」

と、家臣に漏らした。


それを聞き、盧綰の家臣達もみな逃げ隠れた。


辟陽侯審食其は、

調べれば調べるほど怪しいので「盧綰の謀反間違いなし」と断定し、劉邦に報告した。

そして盧綰が張勝という家臣を匈奴に派遣し、

自国のために働かせている事実を言上した。

劉邦は盧綰の謀反を確信し、非常に腹を立て、

「やはり盧綰は裏切ったのだな!!」と毒づいた。

病める劉邦は、樊を盧綰討伐軍の将軍にし、燕に向かわせた。

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人は不運になると、さらに不運が重なるらしい。

劉邦が盧綰のもとに派遣した、辟陽侯審食其御史大夫趙尭というのは、

盧綰にとって最悪の人選であった。

審食其は沛以来呂后のお気に入りの家臣で、

呂后にへつらい寵愛され、後宮に勝手に出入りし権勢をふるい群臣を恐れさせ、

政治を仕切った人物である。


このような人間が盧綰を取調べたらどうなるか・・・。

呂后の功臣誅殺方針の意を汲み、盧綰を陥れようとすること間違いなしである。

それを実証するかのように、劉邦の死後審食其は呂后に、

「功臣全員を殺せば(呂氏の)天下は安定する。」

と凄まじい進言をしているのである。

呂后も一度は賛同しかけるものの、群臣の猛反対にあい断念している。

御史大夫趙尭も、前任の周昌を策略で追い落とし自分が後釜に座ったような男である。


はっきりいって、最悪の人選である。

ただ、救いがあるとしたら、盧綰討伐軍の指揮官が昔馴染みの樊だったことか・・・。



こうして盧綰の運命は暗転してゆくのだが・・・

審食其? 劉邦と同郷で沛の人。劉邦とは若い頃からの友人である。劉邦が挙兵する際、これに従い、劉家の家事取り仕切りを任された。自然、呂后に仕える形となった。そして次第に呂后にへつらうようになり、寵愛された。劉邦が項羽留守中の彭城を落としたものの大逆襲されたとき、審食其は呂后とその子ども、劉邦の父親、劉一族の女性・子どもを守っていたが逃げ切れず、まず呂后の子どもが行方不明となり(その後夏侯嬰が発見、保護した)、呂后とその一団は項羽軍に捕えられた。審食其も項羽軍の捕虜となったが、そこでも呂后にまめまめしく仕えた。後、楚漢の鴻溝の盟約で、審食其・呂后とその一団は劉邦の元に返された。垓下では劉邦に従い、項羽討滅戦に参加した。この戦いと呂后を守った功績により辟陽侯に任命された。天下が平定された後も常に呂后の側に侍り、いつも宮中にいた。
劉邦が趙王張敖を捕えた時、劉長(劉邦の末子)の母親も投獄された。彼女はかつて張敖の後宮にいたことがあり、その後劉邦に贈られ懐妊し劉長を出産し、趙王のもとで劉長を養育していたため事件に巻き込まれたと思われる。彼女の弟・趙兼が審食其を訪ね、<審食其→呂后→劉邦>のラインでのとりなしを頼んだ。審食其が呂后に「劉長の母親は解放してもいいのでは」と進言したところ呂后は「帝にまた女と子どもができたのか!その女、許せぬ!」と嫉妬し、怒って劉邦へとりなそうとはしなかった。審食其も呂后の怒りを憚ってそれ以上諫言できなかった。劉長の母は怨み怨んで怒り極みに達し、遂に獄中で自殺した。赤子であった劉長を抱いた役人が劉邦の元に到着すると、劉邦は大いに悔やみ、呂后・審食其を叱り、劉長を養育するよう呂后に命じた。早くに母を失った劉長は呂后によく懐き、呂后もこの義理の息子を寵愛した。成長した後淮南王になったが、いつか審食其に仕返ししようと常に考えていた。彼は仇討ちの為に筋トレでもしたのか、怪力で有名であった。審食其はその後、丞相になったが、丞相の執務室にいることはなく呂后の側を片時も離れず、呂后の庇護下でおおいに権力をふるった。が、呂后の死
(紀元前180年)とともに免職となった。淮南王劉長は、母の仇審食其を討とうと機会を密かに探っていた。紀元前177年、劉長は領地の淮南から入朝し、辟陽侯審食其の自宅を訪ねた。審食其が出てくるとすかさず隠し持っていたハンマーで審食其の脳天を叩き割り、これを殺した。
呂后専制とともに政治を欲しいままに動かし、群臣を恐れさせた辟陽侯審食其はこうして殺された。

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